木造五百羅漢像・木造阿弥陀如来坐像

木造五百羅漢像

木造五百羅漢像

木造五百羅漢像

山梨県指定有形文化財(彫刻)

概要

修験道場として開山された、その名も羅漢寺に伝わる羅漢像。寺は、昇仙峡を象徴する覚円峰を抱く山に建立され、山の名も羅漢寺山という。

詳細(山梨県史から引用)

本寺は住古北山筋の高野山とも別称された真言密寺であり、これら五百羅漢像は寺後山中の小宇に安置されていたという。また、山を三岳と号し、一岳弥陀、二岳釈迦、三岳薬師の各像が祀られていたと伝える。

大永年間(1521~1524)広厳院第四世によって曹洞禅に改宗後、慶安四年(1652)三月の大火で寺蔵の史料を失ったといい、その後現在地に移転された。

寺蔵の五百羅漢像は、境内の保存庫に安置されているが、その数百五十四軀、法量は最小36.0センチ、最大は総高81.0センチ。その殆どは台座まで含めた一木彫の立像で、剝落はあるが胡粉地に彩色の痕がある。材は栂(四軀)、杉(十五軀)、以外はすべて檜材が使われている。

作風は数軀を除いて同一系統に属するものであるが、姿態相貌は千差万別、すこぶる多様で、阿羅漢に対する仏師のイメージも至極奇抜なものがあり、それぞれ個性の表出に難渋されたと推察され、反面変化自在に対応された仏師の技が評価される。

在銘像は十五軀、主として像底に在家の信者が参詣の折記した墨書と考えられる。

この像群とほぼ同期と推定される大月市真蔵院所蔵の七社権現像、あるいは応永十九年(1412)造立の上野原町照沢社の蔵王権現立像以上に、苦心のあとがうかがえる優作ぞろいである。

元来、羅漢とは阿羅漢の略称で、小乗の教法を学ぶ仏道修行者、声聞の四果(須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢)の最上位を指し、応供、殺賊、不生、あるいは離悪と訳されるごとく、内面的に精神性の強調された豪快な姿態の中に、一木彫の特質をたくみに写しだされて余すところがない。

また、五百比丘とも別称され、西紀前485年の仏滅の年、王舎城七葉窟で行われた第一次結集に参加した五百人を指すが、一説に仏滅後六百年(115年)のころ『毘婆沙論』の結集のため招かれた羅漢五百を指すともいう。

いずれにもせよ、中国にあっては盛んに崇拝され、福建省には五百羅漢院が現存する。わが国でも耶馬渓の羅漢寺、東京目黒の弥勒寺に像群が安置され、いまも大衆の信仰をあつめている。羅漢寺も右二寺に劣らず、古来信者の参詣が絶えなかったようである。

木造阿弥陀如来坐像

木造阿弥陀如来坐像

木造阿弥陀如来坐像

山梨県指定有形文化財(彫刻)

概要

修験道場として開山された羅漢寺に伝わる阿弥陀如来。

詳細(山梨県史から引用)

境内の宝庫に安置された本像は、内刳のある檜材の寄木造で、坐高70センチ。第1・3指を捻じて中品下生の印を結び、衣を著け裳先を長く垂下し、右足を前に結跏趺坐する。螺髪は切付式、地髪は額の上に強くのりだし、肉髻部に漸移するが、その境は定かではない。白毫相、長面で彫眼は伏せ目気味、眉はピンとはっている。なお各部とも概して刀法は粗豪というべきか、とくに垂下した衣端(後補)の如き調和に欠ける感は免れない。

頭部は両耳の前と後で縦三材に矧ぎ、内刳を施して三道下で胴躰に差しこむ。躰幹部は躰側で前後に矧ぎ、内刳りを施すが、ほぼ正中線に沿って前後の材から地付近くでそれぞれ共木の束一本を出し、中央で接着する技法を採っている。両手は肩、臂、手首でそれぞれ矧ぎ、膝部は横一材で底を刳り、下腹部で胴躰に矧ぎあわせ、なお数材縦矧ぎの衣端垂下部を矧寄せる。

一部布貼り錆下地、彩色像であったが、剝落がすすみ全体的に古色を呈する。

本像は一見来迎弥陀の姿であるが、当初と考えられる像底銘では応永30年(1423)造立の釈迦如来像であったが、永正7年(1510)再興の際、仏師伊与法眼による印の改変が行われた結果であろう。ともあれ室町時代の特徴をそなえた、在銘像として注目される。

法量は次の通りである(単位センチ)

坐高70.0、面長14.0、面幅10.5、耳張13.4、面深15.6、肩張32.0、肘張42.5、膝張58.1、膝高12.0、膝奥48.0.

所在地(木造五百羅漢・木造阿弥陀如来坐像)

甲斐市吉沢4835番地3(羅漢寺)

参考文献(木造五百羅漢・木造阿弥陀如来坐像)

『山梨県史 文化財編』

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商工観光課 観光交流係

〒400-0192
山梨県甲斐市篠原2610
電話:055-278-1708
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更新日:2022年03月08日

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