旧羅漢寺の遺構

旧羅漢寺の遺構

旧羅漢寺の遺構

旧羅漢寺の遺構

未指定(史跡)

概要

羅漢寺は大永年間(1521-1527)に創建されたとされ、開山当時は、羅漢寺山の中腹にあったが慶安4年(1651)に火災で消失し、その後、新道開削により木造羅漢像とともに現在の場所に再建された。旧羅漢寺跡には、当時の石組みなど、かつての遺構が観られる。

旧羅漢寺について

甲府盆地の北西部には、金峰山などを最高峰とする奥秩父連峰からのびる山々が連なっている。その山の一つであり、御岳昇仙峡を形成する荒川の右岸にある羅漢寺山は標高1,058mを測る。現在の天台山羅漢寺は、その羅漢寺山の東南山麓の荒川沿いに所在する曹洞宗の寺院である。

旧羅漢寺は、かつては北西1キロメートルの羅漢寺山中に所在した。羅漢寺山中の寺院上方には、岩屋である一の岳・二の岳・三の岳が所在し、それぞれに五輪塔・宝篋印塔などの石造物が安置されていた。五輪塔の中には水輪上部ほぞ穴中に、火葬された骨片や歯などが確認されたものもある。かつては一の岳には阿弥陀如来が、二の岳には釈迦如来が、三の岳には薬師如来が安置されていたとされ(『甲斐国志』)、さらに一の岳には現在羅漢寺が保管している五百羅漢像が所在したとされる。羅漢寺山の尾根には、金桜神社への登拝ルートである「外道」が通じるなど、金峰山へ至る通路の一つであり、旧羅漢寺はそのルート沿いに位置していたことになる。

旧羅漢寺は古くは真言宗寺院であり、「北山筋の高野山」と称された。『甲斐国社記・寺記』『敷島町誌』によれば開基は源頼朝の孫である天台座主有金僧都であると伝えられるが、天台座主が真言宗である羅漢寺の開基であることは、不自然であるとの指摘がある(2000笹本)。寺の創建年代等は不明であるが、かつて岩屋に納められていた五百羅漢像のうち、銘文を持つものが5体程見られ、その銘文には15世紀前半台の年号やそれに関わる銘文が認められることから、15世紀前半に一つの画期があったことが確認できる。またその成立については、岩屋に石造物が安置される状況から、中世以前に昇仙峡の覚円峰等の巨大な岩を磐座に見立てた山岳信仰の存在が推定され、それとともに金峰山信仰と結びついた山岳修験の拠点としての性格を持つとともに、三岳を中心とした三昧場であったのではないかとの見方がある(2004櫛原)。

旧羅漢寺は、羅漢寺山中を流れる荒川支流の羅漢寺沢沿いの谷間に、急峻な谷底を削り、石垣を積んで造り出したテラス上に位置する。テラスは10数箇所が連続し、谷北側斜面に沿って細長く造られていた。発掘調査では、本堂跡・庫裡跡・庭園跡などが明らかとなった。本堂はテラス最上段で確認された。南北10m、東西20mのテラス面のうち北西奥壁には巨石2個体が位置するが、北西側の巨石は幅6.5mを測り、前面を加工して平坦面が作り出されている。平坦面には東西方向に幅0.2mの溝が施され、それとほぼ併行に幅1.8から2.0m間隔に柱穴を4箇所穿っている。この巨石の北東方向へトレンチを設定したところ、北西から南東方向に3箇所、北東から南西方向へ2箇所の逆L字状の礎石を確認した。礎石は側面を加工する丁寧な作りのものである。またテラス南東の庫裡の所在するテラスとの境には、2段の石垣が積まれており、中央部には階段がかけられていたものと推測される。庫裡は本堂より一段下のテラスで確認された。最も広いテラスであるが、寺院廃絶後自然災害によりえぐられ、南側の一部を失っている。9間×5間半の自然石を用いた礎石が確認され、これは『甲斐国社記・寺記』の記載とも一致する。北東側には幅1.5mの通路が井戸まで延び、また西側には庭園跡と推測される不規則な石組み遺構が検出された。庫裡の礎石はいずれも被熱により赤化するなど、火災にあった痕跡が看取でき、この火災が『寺記』に見える慶安4(1651)年の「羅漢寺火災」であった可能性も考えられている。さらに庫裡下段のテラスでは、南端にL字形の階段13段が検出されており、字域内の導線についても明らかとなった。遺物は井戸付近で土師質土器・陶器・古銭・金属製品等が出土した。おおよそ中~近世に位置づけられる。

羅漢寺の発掘調査について

羅漢寺は、金峰山に源をもつ荒川の右岸に位置する曹洞宗の寺院である。この荒川の流れによって周囲の花崗岩はそれぞれ個性豊かに形造られ雄大な渓谷美を形成している。この渓谷が国指定特別名勝天然記念物『御岳昇仙峡』であり、多くの人々が魅了してやまない景勝地でもある。

もともと羅漢寺は、現在よりも更に北西へ約1キロメートルほど山間に進んだ急峻な谷底に位置する。いつの時代に現在地に寺は移ったかは定かではない。

敷島町教育委員会(現甲斐市教育委員会)では、北山筋の高野山とまで呼ばれ、修験道が活発に行われたとされる羅漢寺の全容を探るため、昭和60年から62年度の3カ年にわたり廃寺となった旧境内地の発掘調査を行った。その結果建物は、谷底を削り出し、石垣によって区画されたテラスの上に建立されていた。テラスは10数枚確認され、雛壇のように細長く造られていた。最上段のテラスに本堂、その下の段のテラスに庫裏が建てられていたことが判明した。

本堂のあったテラスは、東西20m、南北10mの広さで、北側、東側に山を背負い、西側は浅い沢となり、南側は、二段に積まれた石垣で庫裏と区切られていた。

庫裏のあったテラスは、約20m四方の広さがあり、建物も、礎石などから9間×5間半の規模のものであったことが分かった。さらに、庫裏の礎石には火を受けた痕跡が残されており、また、土には炭化物や焼土が多く含まれていることなどから、庫裏は火災によって焼失したものと判断された。この火災が寺記にある慶安4年(1651)の「羅漢寺火災」の可能性も十分考えられよう。また庫裏へ登る階段も13段発見された。

さらに発掘調査いよっては、土師質土器(かわらけ)や陶磁器、金属製品なども出土している。

所在地

甲斐市吉沢4835番地3(羅漢寺、旧羅漢寺の遺構入口付近)

参考文献

『山梨県内中世寺院分布調査報告書』(山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第260集)

『五百羅漢像安置六百年大祭 天台山羅漢寺開基八百年祭 羅漢寺』

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この記事に関するお問い合わせ先

商工観光課 観光交流係

〒400-0192
山梨県甲斐市篠原2610
電話:055-278-1708
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更新日:2022年03月08日

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